イスラエル旅行記

一日目(旧市街)

1,旧市街は大きな石の城壁で囲まれており、門がいくつかあった。今回は一日でまわりきるという都合上ヤッフォ門(写真1)から入り、嘆きの壁、神殿の丘、聖墳墓教会、ダビデの塔の順でまわった。(写真1)

2,旧市街の中は特には白い建物や壁が多く(写真2)、太陽の照り返しがものすごいので、サングラス無しでは目も開けられないほどだった(写真は旧市街の壁を外から見たもの)。

(写真2)

3,道の階段はすり減っているせいか少し光沢があり、滑りやすい感じになっていた(写真はダビデ通りのもの)(写真3)

(写真3)

4,嘆きの壁は、男女の祈祷場所が白いテントで分けられており、向かって左の男のほうが広くなっている(写真4)。

(写真4)

5,男の方には、貸出用の白いキッパが入ったかごがあった。

6,壁の近くは大体が白い服、被り物、おでこにヒクラティ(旧約聖書の章句を書いた経本が入っている四角い小さい箱)をした人がほとんどだったが、黒い大きなシルクハットと黒いスーツ、長く伸ばした髭、といった格好の超正統派も印象的だった。(写真5)

(写真5)

7,彼らは、聖書を片手に壁に向かって音読したり、顔を壁に埋めて何かお願いしたりと、何か少し異様な雰囲気を感じた。(写真6)

(写真6

8,壁の隙間にはそれぞれがお願い事を書いた紙がたくさん挟まっていたが、不心得な者がいたのか、黄色いタクシーチケットも挟まっていた。

9,神殿の丘の途中にある水場。ここで人々は体全体を清め礼拝したらしい。体を洗いやすいよう、石でできた椅子もある。現在は、こういった鳥の水飲み場になっていたが、その近くには銃を持った兵士がおり少し物騒だった。(追記:この約2ヶ月後の7月下旬、エルサレムでは警察と民間人の間で抗争が起き(警官2人が打たれたことが発端)、荒れている状態が続いている)

10,神殿の丘に行く途中にあったモロッコ門でタブレットを回収された(後々これを取りに来ることになるのだが、かなりの回り道をしなくてはいけなく、面倒だったので、タブレットは持ってこないことをおすすめする。携帯電話はOK)。

11,岩のドームは、やはり外観では三宗教の建物の中で一番豪華だったが、中に入ることを認められているのはイスラム教徒だけで、中を生で見ることはできなかった(しかしムスリムのガイドにムハンマドの手の跡、などの中の写真を見してもらい、これもとても豪華だった)。(写真7、8)

(写真7)

(写真8)

12,聖墳墓教会は入ってすぐのところに、イエスの聖骸に香油を塗った石があり、触ることができる。(写真9)

(写真9)

13,イエスの墓の中に入ろうとする人が多く、列がとても長かったので、外から見るだけになった。本当に並んで入るんだったら、20分は最低でもかかると思われた。(写真10)

(写真10)

14,また聖墳墓教会の中は、三宗教の建造物の中で最も壁画(イエス、マリアの壁画など)が多く印象的だった。(写真11,12,13、14)

(写真11)

(写真12)


(写真13)

(写真14)

15,ダビデの塔は、ヤッフォ門の近くにある要塞。現在は旧約聖書にに登場するカナンの時代からイスラエル建国までの歴史を紹介する博物館になっている(写真は塔から見た景色)。(写真15)

(写真15)

16,ダビデの塔にあった説明付きの模型(写真16、17、18)

(写真16)

(写真17)

(写真18)

17,大男のゴリアテを倒したときのダビデ王子(写真19)(生首がゴリアテ)

(写真19)

18,ダビ手の塔にあった年表(3枚つながっている)(写真20,21,22)

(写真20)

(写真21)

(写真22)

二日目(ベツレヘム)

 

19,ベツレヘムは行く途中に検問所があり、エルサレムと比べて、かなり荒廃している様子だった(写真23)。また、銃声か爆竹かわからないが、とにかく、パパパンという音もして、手放しで安全といえるほどの様子ではなかった。

(写真23)

20,少年なども含む住民が観光客に必ずと行っていいほど、アクセサリーだの小物類だのを勧めてくるが、” No thank you” といい通した。向こうも生活がかかっており必死だった(ガイドもツアーの最後の一時間ほどはお土産の時間に割いて、観光を商売に全面に活かしているのが伝わってきた)。余談だが、スターバックスのパクリのような、Star & Bucks Cafeというのもあった(写真24)。

(写真24)

 

タイ旅行記

タイ

    1日目

    1.セブンイレブンがあり、かなりの人が活用している様子(写真1)。

(写真1)
(写真1)

    2.観光地(寺院)などでは、最近中国人観光客が多い(特にワット・プラ・ケオでは)。

    3.ワット・ポーでは、ミネラルウォーターを1本くれるサービスがある。

    4.今日回った寺院はワット・アルン、ワット・ポー(涅槃)、ワット・プラ・ケオ(国、王室の寺院であるため、本堂を撮影することはできなかった。仏像自体は、66cm×48.3cmで小さい)。

    5.ワット・アルンは、暁の寺とも呼ばれるが、1767年、タークシン将軍はビルマによる侵攻で荒廃したアユタヤの地を離れてチャオプラヤー川をくだり、とある夜明けにこの寺に辿り着き、そしてこの周辺を拠点に、現在のバンコク王朝の前身にあたるトンブリー王朝を開き初代の王になった為、当時ワット・マコークと呼ばれていた小さな寺院は、そのことから「暁の寺」と呼ばれるようになったという言い伝えがあります。また、ヴィエンチャン攻略で戦利品として持ち帰えられたエメラルド仏(持ち帰ったのは当時タークシン王の部下だったところの後のラーマ1世)が祀られ、「王宮寺院」となっていた時期もありました(現在エメラルド仏はワット・プラ・ケオ内でみることができます)。ラーマ2世の頃に建設が始まり、ラーマ3世の時代に完成した現在の仏塔は、バンコク様式で、10B硬貨にも描かれています。

    6.ワット・アルンでは、門に鬼が2体立っており、2体とも悪い鬼で、頭の上にまた顔のようなものが2つトーテムポールのようにある(写真2)。

(写真2)
(写真2)

しかし、良い鬼と悪い鬼はどっちも寺を守っており、兄弟であり、常に喧嘩している。しかし、良い鬼と悪い鬼とは、喧嘩するときに怒りやすい鬼とそうでない鬼のことであり、実際には良い鬼が良く、悪い鬼が悪いようでは無いようである。

    7.(写真3)の建物は、トウモロコシの形で(カンボジア様式)、建物を支える猿がおり(タイ様式)、花があり(中国様式)この3つの様式が合わさった建物となっている(建物自体は陶器で出来ている)。

(写真3)
(写真3)

    8.(写真4)では、建物に鈴が付いており、風が吹くたびに鳴っていた。このような形の鈴に願いを書いてぶら下げるという、絵馬のような使い方をすることもある。

(写真4)
(写真4)

    9.(写真5)では、涅槃がいた為、ワット・ポー以外にもワット・アルンにも涅槃が存在することが分かったが、長さは約1mくらいのようで、あまり大きくなかった。また、足の裏にもワット・ポーの涅槃の足の裏には仏教の世界観を現す108図が描かれているのに対し、ワット・アルンの涅槃の足の裏には何も描かれていなかった。

(写真5)
(写真5)

  10.鬼や猿や人の像がある中、鬼は牙が逆向きに生えていることが特徴的だった。

  11.写真(6,9)はワット・ポーの涅槃の建物の壁の様子。

(写真6)
(写真6)
(写真9)
(写真9)

(写真9)の壁のあたりでは、象がたくさん描かれていることが特徴的だった。

  12.(写真7,8)はそれぞれワット・ポーの涅槃の頭、体。

(写真7)
(写真7)
(写真8)
(写真8)

  13.(写真10)はワット・ポーの涅槃の全体像

(写真10)
(写真10)

  14.ワット・ポーの涅槃の足の裏は工事中で正面からはよく見えなかったが、横から少し見ることができた。(写真11)

(写真11)
(写真11)

  15.ワット・ポー(医学の府とされている寺院)の敷地内にはタイ式マッサージについてのことが描かれた壁があった(写真12)。

(写真12)
(写真12)

また、東洋医学に基づくタイ式マッサージ学校が境内にある。

  16.ワット・ポーの敷地内には歴代の王(ラーマ1ー4世)の墓があった(写真13)。

(写真13)
(写真13)

  17.タイにおけるタクシーの一種、トゥクトゥク(写真14)。

(写真14)
(写真14)

  18.タイのお坊さんの服がオレンジ色なのは、元は木の皮で服を染めていた為、茶色っぽい色だったが、今は服の色が少し明るくなった為である。

  19.ワット・プラ・ケオ(ラーマ1世の時代に建てた)を含む、王宮の入場口の外からの様子(写真15)。

(写真15)
(写真15)

  20.制作に8000万B(3億2000円)かかったという、表面が全て金箔で飾られている王宮の建築物(写真16,18)。

(写真16)
(写真16)
(写真18)
(写真18)

  21.王宮内にある、ワット・プラ・ケオや、その他の宝石で綺麗に飾られた建造物(写真17,19,20,21,22,23)。

(写真17)
(写真17)
(写真19)
(写真19)
(写真20)
(写真20)
(写真21)
(写真21)
(写真22)
(写真22)
(写真23)
(写真23)

また、(写真17)では、ワット・アルンの様に、建物に鈴が付いていたが、ほかに人が大勢いたためか、音は聞こえなかった。また、(写真21,23)には、悪い鬼が合計4体写っているが、ワット・プラ・ケオには合計で悪い鬼が6体、良い鬼も6体いる。

  22.王宮の宮殿や、ワット・プラ・ケオの壁には宝石やガラスなどが大量にあるが、高さ160cm辺りまでにある宝石は剥ぎ取られていた(写真24)。

(写真24)
(写真24)

  23.ラーマ5世が建てられた宮殿の1つ(写真25)。

(写真25)
(写真25)

ちなみにラーマ1世はタイが、ラーマ3世は中国が、ラーマ5世はヨーロッパが好きだった様。

  24.(写真26)はラーマ5世が建てられた宮殿で、チャックリー宮殿と呼ばれている。

(写真26)
(写真26)

屋根はタイ様式だが、壁などはヨーロッパ様式である。

  25.(写真27)はチャックリー宮殿の隣にある、火葬場。

(写真27)
(写真27)

一般の人に火葬場ではなく、皇室関係のための火葬場の様。

  26.ワット・プラ・ケオでは、バスガイドに長ズボンを履かなくても良いと言われたが(子供とみなされて)、寺院(正確には王宮)では140cm以上の身長の人は大人扱いされ、一度寺院の外のズボンが売っている店まで行く羽目になった。記念にそのズボンを買ったが、今回の旅行でワット・プラ・ケオはとても服装に厳しいことが分かった。

    2日目

  27.ワット・ヤイ・チャイ・モンコンは、14世紀に留学から帰ってきた修行僧たちの為の瞑想の為に建てられた寺院。また、境内の中央の72mの塔は、1592年に19代ナレースワン王がビルマ王子との象上での一騎打ちに勝った記念塔である《写真3,4》。

《写真3》
《写真3》
《写真4》
《写真4》

  28.《写真1,2》はワット・ヤイ・チャイ・モンコンの涅槃の様子。

《写真1》
《写真1》
《写真2》
《写真2》

《写真42》のワット・ローカヤ・スターの涅槃に足の裏が似ている。

《写真42》
《写真42》

長さも10mはあり、ある程度大きい。

  29.ワット・ヤイ・チャイ・モンコンの階段は、長い間人が踏んでいる為か、コンクリート以外のレンガの部分がすり減っていた《写真9,10》。

《写真9》
《写真9》
《写真10》
《写真10》

  30.ワット・ヤイ・チャイ・モンコンの72mの塔の横にある3基の塔の上の部分は、ビルマ軍の攻撃で崩れてしまっていた《写真5,11》。

《写真5》
《写真5》
《写真11》
《写真11》

  31.ワット・ヤイ・チャイ・モンコンにある仏像に備えてある花はジャスミンとのこと《写真6,7》。

《写真6》
《写真6》
《写真7》
《写真7》

  32.ワット・ヤイ・チャイ・モンコンの72mのの塔の横にある仏像のうち、1つに白毫の様で少し違う(金色のもので、白い右巻きの毛とは到底思えなかったから)《写真8》。

《写真8》
《写真8》

  33.《写真12,13》は、アユタヤ・エレファント・キャンプの象の様子。

《写真12》
《写真12》
《写真13》
《写真13》

何よりも、象が鎖か紐につなげられていなかった為、迫力がすごかった《写真12》。また、初めて象に乗ったが、よく揺れた上、危うく道の横の溝に落ちるところだった《写真13》。

  34.ワット・プラ・マハタートの付近では、洪水があった為、《写真14》の建物の壁に跡が付いている。

《写真14》
《写真14》

  35.ワット・プラ・マハタートは、ビルマ軍に殆ど滅ぼされた為、仏像の金箔が全て溶かされて取られ、仏像全ては重い為、価値のある首だけ持って行かれてしまった《写真16,17,23,27》。

《写真16》
《写真16》
《写真17》
《写真17》
《写真23》
《写真23》
《写真27》
《写真27》

また、流石に全ての仏像が体だけなのは縁起が悪い為か、所々首が付け直されているのもある(《写真17》の左端の仏像、《写真28》)。

《写真28》
《写真28》

  36.ビルマ軍のワット・プラ・マハタートの破壊により、地面が歪み、塔まで傾いてしまっているところもある《写真15,26》。

《写真15》
《写真15》
《写真26》
《写真26》

また、高さだけでもわかるようにと、壊された礼拝堂の外壁に横に1つの長い柱がある《写真21》。

《写真21》
《写真21》

  37.ワット・プラ・マハタートは、元は《写真41》の様な寺院だったが、現在は《写真20》にある1つの建物だけとなってしまっている。

《写真41》
《写真41》
《写真20》
《写真20》

また、ワット・プラ・マハタートの階段は、長い間人が踏んでいる為、ワット・ヤイ・チャイ・モンコンの様にすり減っていた《写真22》。

《写真22》
《写真22》

  38.ワット・プラ・マハタートの現在の全体像《写真24,25》。

《写真24》
《写真24》
《写真25》
《写真25》

  39.ワット・プラ・マハタートのビルマ軍に破壊される前の模型《写真29,30》。

《写真29》
《写真29》
《写真30》
《写真30》

  40.ワット・プラ・シー・サンペットのビルマ軍に破壊される前の模型《写真31,32》。

《写真31》
《写真31》
《写真32》
《写真32》

  41.ワット・プラ・シー・サンペットの、現在残っている3基のセイロン様式の塔《写真33》。

《写真33》
《写真33》

これら3つの塔には、それぞれ3人の王の遺骨が納められている。

  42.ワット・プラ・シー・サンペットの、現在残っている3基を含む6基のもともとあった塔の様子《写真34》(《写真34》の左から1、3、5番目の塔が現在残っているもの)。

《写真34》
《写真34》

また、破壊される前のワット・プラ・シー・サンペットの全体図《写真35》。

《写真35》
《写真35》

  43.ワット・プラ・シー・サンペットの中にも、金色の仏像があった為《写真36》、洞穴らしきところに入ったところ、鳩の巣となっていた為、鳩が飛び出してきて危うく頭を突かれるところだった。

《写真36》
《写真36》

また、その洞穴を外から見た様子《写真37》。花が添えてある。

《写真37》
《写真37》

  44.ワット・プラ・シー・サンペットの現在の様子《写真38》。

《写真38》
《写真38》

塔や仏像などは全て破壊され、残っているのは瓦礫と、レンガだけの建物の壁等だった。

  45.ワット・プラ・シー・サンペットの階段も、ワット・ヤイ・チャイ・モンコンや、ワット・プラ・マハタートの様に、コンクリート以外のレンガの部分などがすり減っていた《写真39》。

《写真39》
《写真39》

  46.ワット・プラ・シー・サンペットの隣にあった建物《写真40》。

《写真40》
《写真40》

チャックリー宮殿から推測するに、屋根がタイ様式だ。